土岐善麿の世界

<知の探究 ― 言葉への関心 ― >

 土岐善麿(哀果)は、歌人であり、国文学者である。歌人としての土岐は40冊近くの歌集を出版し、また石川啄木や若山牧水を始めとする多くの文学者と誼を通じた。国文学者としての土岐の活動は幅広く、例えば万葉集の研究・漢詩の研究・新作能の創出・ローマ字普及運動などが挙げられる。特にローマ字の普及、ひいては国語・国字問題に関しては精力的に取り組んだ。
 土岐がローマ字に興味を持ったその結果が、第一歌集『NAKIWARAI』の出版だといえる。この歌集の短歌の表現方法は革新的で、それは「ヘボン式ローマ字三行書き」というものであった。出版に至った理由を、土岐自身は〈漢字や仮名に対する疑ひが起つてゐたので、どうせ出すならローマ字で書いて出さうと思ひ〉(『短歌雑誌』大正7年)と記している。出版当時24歳。土岐はこのように若年のころから、いわゆる国語・国字問題に関心を持っていたのである。ちなみに「ヘボン式ローマ字」というのは、アメリカの宣教師ヘボンが著した和英・英和辞典『和英語林集成』第3版に採用されたローマ字の綴り方式のことである。土岐は当初このヘボン式を高く評価していたが、いつしか日本語の表記に適さないと感じるようになり、折良く物理学者・ローマ字論者の田中館愛橘から誘いを受けたということもあって、「日本式ローマ字」へと転向することとなった。

 第一歌集でローマ字を使用したことから、土岐はエスペラント語の普及にも携わることになった。また、昭和24年から36年まで国語審議会会長を務め、国語表記問題に対しても大きく貢献した。
 後年の土岐はローマ字を使用することはなくなったが、多くの新作能を発表するなど文学的活動に衰えを見せなかった。また、80歳で本学(当時は武蔵野女子大学)の日本文学科に赴任し、94歳で亡くなる直前まで教壇に立ち続け、培ってきた「知」を学生たちに分け与え続けた。

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『NAKIWARAI』
ローマ字ひろめ会 1912(明治43)年4月

土岐善麿(哀果)の第一歌集。 全編を通じ、短歌をヘボン式ローマ字によって三行書きで表記した。石川啄木はこの歌集におおいに注目し、当時勤めていた朝日新聞に「NAKIWARAI評」を掲載した。これがきっかけとなり、土岐と啄木の交流は始まった。展示したのは、1971(昭和46)年5月に日本 近代文学館から出版された複刻版である。武蔵野大学図書館蔵。

<土岐善麿と漢詩 ― 和訳の特徴とローマ字表記 ― >

 土岐は中国文学である漢詩(特に杜甫)にも造詣が深かった。〈(自分は)中国文学の正式な専門者ではない〉と言うものの、その解釈や考察は大変に的確である。また、土岐は漢詩を五七調あるいは七五調で訳して、日本語のリズムを生かした訓読文を作ることにも努めた。これは歌人ならではの技といってもよいだろう。
 さらに土岐は、その和訳した漢詩をローマ字表記することを試みた。それを纏めて本にしたのが、『鶯の卵』である。なぜローマ字表記にしたのかというと、土岐の中に〈日本では漢字を日用の文字にして居るために、国語の教育に甚だ多くの時と力を費し、しかも効果が挙がら〉ないが、ローマ字というのは〈字形が簡便で、言ふ通りに書くから、適当な漢字を捜すこともいらない〉という考えがあったからであった。ここでローマ字表記の「春望」を見てみると、例えば助詞の「は」を「wa」と表記していることなどから、まさに〈言ふ通りに書く〉ことができるという土岐の主張が体現されている。
 しかし、後年の土岐は〈(ローマ字表記は)現代語的表現において、もっとも適当に発揮せられるはずである〉というように考えを変え、『鶯の卵』以後に出版した漢詩和訳本にローマ字表記の訓読文を載せることはなかった。

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『UGUISU NO TAMAGO(鶯の卵)』アルス
1925(大正14)年1月

国語・国字問題の一貫として漢詩の和訳をローマ字表記にし、ローマ字の可能性を追求した一書。本書ではヘボン式ではなく日本式ローマ字を用いている。巻末に「ローマ字の利益並に日本式綴り方に就て」と題して、日本式ローマ字の公爵を付している。武蔵野大学図書館蔵。

<武蔵野 ― 土岐善麿と若山牧水 ― >

 若山牧水と土岐善麿は、早稲田大学の同級生であり親交が深かった。土岐が入学した1904(明治37)年頃より、二人の交流は始まったようである。
 当時、牧水と土岐が国木田独歩『武蔵野』を愛読していたことから、二人で武蔵野散策を楽しみながら短歌の創作をおこなっていたようだ。
 また武蔵野散策の成果としてか、読売新聞には1906(明治39)年11月から1907(明治40)年6月にかけて、「むさし野」と題して、牧水・土岐が作った短歌が、計10回に渡って掲載されている。このとき掲載された歌の何首かは、土岐の第一歌集『NAKIWARAI』にも収録されており、「武蔵野」という土地が、二人の思い出の地であり、土岐の歌の出発点でもあることがうかがえる。

 むさし野は片岡つゞき並杉の葉すゑ赤みて春となりけり   (「読売新聞」1907年3月31日)

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府立一中(現、都立日比谷高校)時代の土岐。明治34年ごろ。同級生に石坂泰三・三宅正太郎、一級下に谷崎潤一郎がいた。すでに作歌をはじめていた。『周辺』(1980(昭和55)年11月 第9巻第2号)より。

<土岐善麿と石川啄木>

 武蔵野の地に親しみながら、短歌を作っていた土岐善麿は、1910(明治43)年4月、土岐24歳の時に、第一歌集『NAKIWARAI』を出版する。ローマ字の三行書きという革新的なスタイルで短歌を書き表すというものであり、歌人としての土岐に注目が集まった。同年8月、石川啄木は、「大木頭」という名で『NAKIWARAI』評を朝日新聞に掲載、その後も自身の連載で土岐の歌に触れ、高く評価するとともに深い理解者となった。土岐が啄木に電話で連絡をとったことがきっかけとなり二人の交流が始まり、雑誌『樹木と果実』を創刊する計画をたてるものの、啄木の病が発覚したことなどにより計画は頓挫する。
 1912(明治45)年4月13日、石川啄木は27歳の若さでこの世を去る。まもなく土岐は、啄木全集の刊行に尽力し、困窮する遺族に印税が渡るよう配慮した。逝去した後も友情は続き、啄木の作品は生き続けることになったのである。

<「生活と芸術」 ― 斎藤茂吉との論争 ― >

 石川啄木との交流が深かった土岐だが、二人が計画していた雑誌「樹木と果実」の発行は実現には至らなかった。しかし、1913(大正2)年9月、土岐は雑誌『生活と芸術』を東雲堂から発行した。誌面の内容としては、土岐本人が〈いわゆる詩歌を中心としたものではなく〉〈文芸一般に興味をもったものの自由な結合であつた〉と言っているように、短歌雑誌の枠にとらわれないものであった。土岐自身も精力的に執筆を行っていたが、1915(大正4)年9月より始まった『生活と芸術』誌上の「歌壇警語」に端を発して、齋藤茂吉との間に約半年をかけての論争が展開されることとなる。
 論争の発端となった、〈齋藤君の近来の作歌は、内から湧きでるのではなく、外からくつ附くのであるやうに思はれてならない〉〈内部の生活を究めるのではなく、外面の材料を探してゐるのではないか〉という土岐の言葉は、『万葉集』等の過去の歌や他人の作の言葉を用いた歌が多い茂吉に対しての批判であった。ただしそれは、単に行為そのものに対しての反発ではなく、〈いろゝゝな言葉からお蔭を蒙る努力のために、しばしば自己の感動そのものを逸することはないか〉という、目的と手段が入れ替わっている状態に対しての、自省を促す言葉であった。
 対して、茂吉の反論は激しく、〈耳邉に嘲笑のこゑが聞こえる〉〈酒に酔ぱらつてゐるのではないかと思つて見るとさうでない〉〈土岐君は予の製作機轉と詞の吟味行為とを混同して結論してゐる〉と反論した。

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自筆原稿「茂木の歌学的方法について」

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「茂木の歌学的方法について」が掲載された『余情』(1947(昭和22)年10月 斎藤茂吉研究号

 しかしさらに土岐は〈人からものを言はれて、対者が酔っぱらつてゐるのではないかなどゝ思ふのは、第一礼を失したことである。その態度の裏には、ヘン、ドロンケンが!といふ心もちがあるに違ひない〉と激しく返した上で、〈齋藤君、九月十二日は、君のアタマのよほど悪い日だったとみえる〉と茂吉の態度を批判した。
 この論争は、その後も互いに厳しい言葉をもって続いたが、勝敗が決まる類のものではなかった。土岐側の〈君は父母の詞で時代の新しい自分を現はしうると思つてゐるし、僕は僕自身の唇から僕自身の詞を発しようと期してゐるのである〉という言葉の新たな可能性に挑戦する姿勢と、茂吉側の〈今はいかにも自分の詞になつて居るが、もとは或ところから入つて来たのがある、つまり御蔭を蒙つたものがある〉〈そのお蔭を蒙つた本源を明らめて愛し尊敬しようといふのである〉という、過去の作品に敬意を払うことを重視する主張とは相容れることはなかったのである。しかし、土岐は本来期待していた、冷静な相互議論の上での〈作歌上の研究〉には茂吉の態度が繋がらないとし、茂吉の返答に対して〈発言者の身にとつて、光栄なことである〉と感謝しつつも、1916(大正5)年4月、論争を終結させた。
 ちなみに茂吉との私的な交流は、この後も特に滞りはなかったようで、茂吉の死の知らせがあった際は〈交遊四十余年の追憶が一時に、まとまらないままに前後もなく浮んでくる。哀悼の歌などもすぐつくる気になれ〉なかったと追憶している。

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早稲田大学の時代、回覧雑誌「北斗会」の友人たち。明治37年。左から藤田進一郎・仲田勝之助・佐藤緑葉・若山牧水・土岐・安成貞雄・三沢豊。この英文科の同級に北原白秋・服部嘉香らもいた。

<新聞記者として ― ①「駅伝」の企画 ― >

 土岐善麿は、歌人としてだけではなく、新聞記者としても活躍した。1908(明治41)年10月、読売新聞社に入社し社会部外交記者となり、1917(大正6)年、現在の駅伝マラソンの起源である「駅伝競走」を企画している。この年は江戸が東京になって50年目にあたるため、東京市は「東京奠都五十年奉祝博覧会」(3月15日~5月31日)を上野不忍池畔で開催。その協賛事業として読売新聞社は「駅伝競走」を4月27日に実施した。
 これは東京―京都間の508キロを23区間に分け、関東組・関西組に分かれて昼夜問わず走りつぐという他に類をみない企画であったが、初の試みということもあり、予想外の事態が頻発した。当時の読売新聞の支局は横浜のみであり、使用できる電話も編集用にわずか2本。また、各選手交代地での宿泊費、各種手配、併走した人々の飲食代等により、経費は当初の予想をはるかに超過した。
 「駅伝」は企画としては成功をおさめたが、財政的には赤字であったため、当時社会部長で責任者であった土岐に、社内での批判が集中した。そのため、1918(大正7)年8月、土岐は読売新聞社を去り、2ヶ月後に朝日新聞社に入社。以後定年まで勤めた。

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1917(大正6)年4月27日に開催された「東海道駅伝徒歩競争」は、「東京箕都50年奉祝博覧会」において読売新聞 社が行なった協賛事業であった。そしてこれを企画、実行したのが、当時読売新聞社会部長であった32歳の土岐善麿である。ただしこの本に描かれているのは、駅伝当日の内容ではない。土岐が、京都から東京まで、明治天皇御東幸のときの本陣の跡を尋ねて行った実地調査の記録である。調査記事は、「東海道五十三次」と題され、1917年1月~2月にかけて読売新聞に掲載されている。武蔵野文学館準備室蔵。

<新聞記者として ― ②土岐善麿と女性 ― >

 駅伝を実現した後、土岐は読売新聞を退社することになるが、在籍中は精力的に活動していた。1912(明治45)年5月から6月にかけては、「新しい女」と題した連載を執筆、与謝野晶子、田村俊子、松井須磨子など25名の女性を取り上げて、彼女達の様子を生き生きと描いている。
 さらに1915(大正4)年、土岐の自由で平等な女性観からか、読売新聞社に新設された婦人部長も兼任することとなった。土岐の女性観は、当時の男性としてはかなり先進的であったといえる。それは、「婦人雑誌を衝く」という座談会においての彼の言葉に表されている。
 女性向け雑誌の改善に向けての具体例として、一人の参加者が「〈ちょっと程度を下げて、婦人向きにやさしく〉書けばよい」、と発言したことに対し、土岐は「〈それは書く人の態度が階級的というか、性別的というか、そういうところにわかれていて、日本の文化が一般的に、男も女も高い水準へ向っていく〉という要求がないのではないか」と、異論を述べた。
 男女の別なく、知的水準の向上を目指すべきだという土岐の考えは、晩年の武蔵野女子大学における女子教育の必要性を重視する教えへと繋がっていく。

<武蔵野女子大学との関わり >

 1965(昭和40)年4月、千代田女子専門学校国文専攻を前身とし、武蔵野女子大学文学部日本文学科は開設された。土岐善麿は、当時の主任教授として日本文学科に就任し、1965(昭和40)年4月から1979 (昭和54)年3月まで、実に80歳から14年間、教壇に立ち続けた。担当科目は主に「日本文芸史」「仏教と日本文学」「詩歌演習」「作家作品研究」「図書館通論」など、土岐のそれまでの興味と同様多岐に渡っており、1年毎に2科目ずつ担当した。
 また、短期大学部文科国文専攻においても、「仏教と日本文学」を担当。加えて、自身でも新作能の創作を行い、演技を習っていたことにより、能楽資料センター主任も兼任した。
 在任中に発刊された『むさし野十方抄』(土岐善麿著・大河内昭爾編)は、土岐の大学生活を詠んだ歌も多く収録されており、 彼の生活や心情をうかがう上で貴重な歌集だといえる。
 冒頭三頁目に収録されている下記の歌、

ここに学ぶとはじめて立ちし校庭の花の四月の初心忘るべからず

 これは、今でも武蔵野大学(2004年に共学化)の正門の聖語板に、毎年4月必ず掲げられる。 (藤井真理子)

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土岐は昭和40年に武蔵野女子大学文学部日本文学科主任教授となった。同女子大第1回卒業生と。

<書と短歌 >

 わがために一基の碑をも建つるなかれ歌は集中にあり人は地上にあり

 この歌は、土岐善麿の遺筆なのだという。自身の業績に対して謙虚であり、また真摯に向き合っていたことが伺える歌である。しかし、土岐の足跡を追う者としては、一基の碑も残されていないということを、少々残念に思う。土岐自身は『日本金石図録』や、化度寺碑の宋拓本などを好んでいたそうだが、我々後進の者にも、土岐の書を碑によって鑑賞する機会を多く設けて欲しかったところである。
 とはいえ、自らの手による色紙や短冊が存在するあたり、書を書くこと、書を残すことに躊躇はなかったようである。自らの字を悪筆と称しつつも、書を愛好していたらしいことがわかる。こうした姿勢は、書の専門家でない者の、書との付き合い方として、ある種理想と言えるものではないかと思う。
 土岐の書を実際に見てみると、なるほど悪筆というのも少し納得できるような、クセを含んだ字であった。読み解きに苦労を要したり、遂に読み解きが叶わなかった字もある。〈長い新聞記者生活のあいだ、締め切りに追われながら鉛筆でザラ紙に走り書きした習性が、いまだに抜けず〉(『春望』1976年)と自身も記しているが、本人以外、特に現代人が読むには容易でない字が見受けられるわけである。しかし、そうした中にも鑑賞に耐える面白みを感じられるのは、書の鑑賞を好んだのと、書家の友人とを持ったためであろうか。
 私が現状把握している、土岐と交流のあった書家は二人、宇野雪村・松井如流である。宇野雪村は、その作品集の序を土岐に頼むなどしている。松井如流は、土岐と同じ歌人でもあり互いに影響しあい、また土岐の参加する「杜甫を読む会」のメンバーの一人でもある。この二名のどちらかなのか、或いは全く別の人なのかは定かでないが、〈毛筆をとったら、せめて一字一字、ゆっくりとていねいに書くようになさい、なまじ手習いすると、かえって個性のないヘンなものになりますよ」(『春望』)と、土岐へ助言をする者があったそうである。この助言の影響か否か、例えば自分のサインの「麿」字の伸びやかさは、非常に楽しげに書かれている。松井如流は、次のように記している。

 書は天才者だけのものかというに決してそうではない。天才者流の天馬空をゆくような歯切れのよい書にも喝采を送ることに蜂躇しないが、鈍才者流の人が、一所懸命にひたむきに書きあげたものに、いうにいわれぬ稚拙の妙を発見する。

 土岐は悪筆かも知れないが、悪筆なりに自分の世界観を作り上げているといってよいだろう。
 最後に、書について詠んだ短歌を挙げる。

心あつく書を書きゆかんそれのみにわれの身体は残されており(如流)

争坐位帖正しきものは常に正し春寒さ半夜の燈を惜しむなり(善麿)

 「争坐位帖」は、中国の唐時代の書家、顔真卿の書いた草稿である。訂正箇所が甚だ多く、見ようによっては醜い印象もあるかも知れない。しかし、気取ったところがない流れの良さや、書者の感情の表出が極まっている、書の名品である。
 如流は、自分で書を創造することに重きを置き、土岐は名品の鑑賞に重きをおいている。歌人としては同格でも、かたや専門家、かたや自称悪筆の素人である。書に対する向き合い方は、それぞれに違う。しかし、土岐は土岐なりの立場から、書に対して全力で向き合っていたのである。土岐の書の本質は、そうしたところにあるのであろう。
(井上 悠)

<漢詩 ― 和訳と日本式ローマ字 ― >

 土岐善麿は「日本語の表記にはローマ字が適している」という考えを持っていたことから、ローマ字普及活動を精力的に行った。その活動の一つとして挙げられるのが、漢詩の和訳である。
 1925(大正14)年、土岐は自身初の漢詩和訳本となる『鶯の卵』(アルス)を出版した。この著書は、土岐が朝日新聞社在籍当時に「週刊アサヒ・グラフ」において、1924(大正13)年から毎週一回連載していた「鶯の卵」というコーナーを1冊にまとめたものである。土岐はこの著書において約八十首の漢詩を、歌人としての才を活かし五七調あるいは七五調という日本語特有のリズムを用いながら、しかも原詩の雰囲気を損なわないよう訳すことに努めた。そして、その和訳文をすべて「日本式ローマ字」で表記したのである。例えば、かの唐代の詩人杜甫の五言律詩「春望」であれば次のようになる(下段に、仮名に表記し直したものを付した)。

HARU NO NAGAME.
Kuni yaburete Yamakawa wa ari,
Haru nare ya Sirobe no Midori;
Hana mireba Namida sitodoni,
Tori kikeba Kokoro odoroku;
Norosi no Hi mituki taesezu,
Tieni koisi Hurusato no Humi;
Sirakami wa iyoyo mizikaku,
Kazasi sae sasi mo kaneturu.

はる の ながめ
くに やぶれて やまかわ わ あり
はる なれ や しろべ の みどり
はなみれば なみだ しとどに
とり きけば こころ おどろく
のろし の ひみつき たえせず
ちえに こいし ふるさと の ふみ
しらかみ わ いよよ みじかく
かざし さえ さし も かねつる

 このように、五七調の訳文をすべてローマ字で表記している。 土岐はローマ字を推進すると同時に、中国といういわゆる外国で発明された文字である「漢字」を日本語の表記に用いることに 異を唱えた。このことについて、土岐は『鶯の卵』の「はしがき」に、『鶯の卵』の執筆動機と共に次のように述べている。

 言葉を写す文字として、すなわち日本語の音を表すためのものとして意味のある漢字が完全にその役目を果たすはずがありません。不完全な書き方、無理な読み方のために、本当の日本語が貴い命を損なわれ、かつまた新しい様々な機械の発明に対しても、世界の文化に取り残されつつある事実は、 ここに改めて例を挙げるまでもありますまい。(…)
 (漢字と日本語の)この二つの区別をはっきりと知らせたいというのがわたくしの「漢詩和訳」の第一の目的でした。 二つは別々のものであるに関わらず、久しいあいだの歴史と慣わしのために、本質的に離すことのできないもののように考えてしまった人々があります。それらの迷いをとくために、 漢字と日本語と、この二つを並べて、それの中身の違いを知ってもらいたいというのがわたくしの(漢字で綴られた詩をローマ字日本語に直した)理由なのです。 (原文は日本式ローマ字表記)

 表意文字である「漢字」は日本語の音を表すのにふさわしくないことを人々に気付かせる。そのために土岐は漢字で綴られた詩を日本語に直し、そしてローマ字表記したのだ。
 では、ローマ字を利用することが日本語にとってどうして有益なのか。土岐はこのことについて、『鶯の卵』の巻末に付した 「ローマ字の利益並に日本式綴り方に就て」の中で、次のように 主張している。

 日本では漢字を日用の文字にして居るために、國語の教育に甚だ多くの時と力を貸し、しかも効果が擧らない。(…)
 これは世界における國家の生存、國力の發展から見ても、また人類としての文化の上から考へても棄て置き難い。之れを救ふのがローマ字使用の最も重大な目的である。
 現在漢字を使って居る結果、國語が主に目で見る語になって、本當の日本語即ち口で云ひ耳で聞く日本語が發達しない。 (…)ローマ字を使へば、書く語と云ふ語とが平行にゆくから、日本語が初めて眞正の發達を遂げ、(誤解や行い違いというような)こんな不都合もなくなる。

 他の理由としては、ローマ字を使用すれば適当な漢字を捜すこともしなくていい、タイプライターなどといった文明の器械を使用することもできる、外国人にも理解してもらえるし外国での印刷も自由である…これらがローマ字に対する土岐の考えであった。
 しかし、ローマ字と言っても綴り方は一つではない。そこで土岐は「ローマ字の利益並に日本式綴り方に就て」の中で、日本語 に適した綴り方について〈(日本語を表記するのに)最も正式と 認められるローマ字の綴り方は日本式綴り方である〉と述べ、さらに従来利用していた「ヘボン式ローマ字」の難点を指摘しながら、「日本式ローマ字」の適正である理由を詳しく述べている。
 このような趣旨のもとにつくられた『鶯の卵』は愛好者を得、 出版社を3回変えながら版を重ねた。しかし、1956(昭和31)年に春秋社から出版された『新版 鶯の卵』(同内容で1985(昭和60)年に筑摩書房から『鶯の卵 新訳中国詩選』として出版される)では、その大きな特徴となっていたローマ字表記の訳文は省かれることになった。その理由は、「はしがき」に 次のように述べられている。

 わたくしは、日本の国語問題の解決、国語教育の推進、その社会的進展のためには、ローマ字表記を考えることなしに 成し遂げ難いという信念を持っているものであるが、(…)
 『鶯の卵』の企画と内容は、今日において、もはや必ずしも、 それに適応した資料でないと思うようになったからである。 言い換えれば、中国の詩を文語体の格律をもって訳し試みることは、むしろ過去的なものであることをさとったことにもなるのである。以下「学日本語の効用は、現代語的表現において、もっとも適当に発揮せられるはずである。

 この『新版 鶯の卵』が出版された後、土岐は『新訳 杜甫』(光風社書店、昭和45年)、『新訳 詩抄』(光風社書店、昭和45年)、『杜甫への道』(同上、昭和48年)などといった漢詩和訳本及び研究書を続々出版するが、いずれもローマ字表記の和訳文は見られない。 (丹治 麻里子)

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『新訳 杜甫』 光風社書店
1970(昭和45)年3月

杜甫の詩約百首を土岐が和訳し、さらに注釈を付したもの。その的確な考察からは土岐の杜甫への関心と造詣の深さがうかがえる。武蔵野大学図書館蔵。

<新作能 梗概>

 土岐善麿と能との関係を考えるとき、すぐに思い浮かぶことは、数多くの作品を生み出した新作能の作者である、ということだ。土岐は「夢殿」から「鑑真和上」まで全16編の新作能を残している。
 土岐の新作能に関する論考の一つに、羽田昶「土岐善麿と能」 (『武蔵野日本文学』第3号、平成6年3月)がある。そこには「①成立年次および掲載誌、②内容、③主な典拠、④登場人物、⑤初演年月日、舞台」を示した、詳細な解題が掲載されている。そのうちの「②内容」は、簡略にまとめられたものであるので、ここではそれぞれ作品の梗概を少し詳しく紹介したい。
 執筆順に作品をあげ、初演年月日と舞台は曲名の下に( )に入れて示し、①登場人物、②梗概をまとめた。なお、①登場人物については、前掲の解題より引用させていただいたことを、お断りしておく。

夢殿(1943・4・3、喜多舞台)
①前シテ 老翁、後シテ 夢の精、ワキ 東国の僧。
②法隆寺へとやって来た東国の僧が夢殿へ向かう途中、聖徳太子誕生の奇瑞や十七条憲法の由来などを語る不思議な老翁と出会う。老翁は、太子が夢に見た東方の人であると告げて姿を消す。夢殿で読経する僧のもとに夢の精が現れ、太子が黒駒に乗り天を翔るさまをみせる。

和気清麻呂(1942・6・21、華族会館恩賜舞台)
①前シテ 僧道鏡、後シテ 宇佐八幡の神霊、ツレ 清麻呂、ツレ 広虫。
②天皇の信頼を得て政治を主導していた道鏡は、宇佐八幡の神託と偽って皇位を継承しようと企む。神託の真偽を確かめるべく、勅使として和気清麻呂が宇佐八幡へ赴くことになった。道鏡は清麻呂を呼び出し、自らの意に副うようにと脅すも、清麻呂は動じることなく宇佐八幡へと向かう。神前に到着し祈る清麻呂の忠義に応え、菩薩が姿を現し、神託は真実ではないことを告げる。

顕如(1942・6・4、赤坂能舞台)
①前シテ 飛騨守重幸の霊、後シテ 成仏した重幸、ツレ 天女、ワキ・ワキツレ 本願寺の僧、アイ 能力。
②本願寺の能力が顕如上人遠忌法要の開式を告げると、導師が登場する。人々が仏前へと急ぐ中、一人の男が法要の場に入りかねている。導師が不審に思い尋ねると、石山合戦の軍師、飛騨守重幸の霊であった。重幸の話は数珠を授かり、仏前へと進む。すると、たちまち修羅道の苦しみに落ち、群集を掻き分け姿を消す。導師が大乗経を読誦し重幸を弔うと、天女が現れ、散華し、舞う。
そして重幸の霊も成仏した姿で現れ、報恩の舞を舞う。

正行(未演)
①前シテ 弁内侍、後シテ 楠正行の霊、ワキ 都の僧。
②正行を弔おうと四條畷へやって来た都の僧(四條中納言隆資)は、正行の塚の前でさめざめと泣く少女に出会う。少女は弁内侍であった。ともに昔を偲び、弁内侍は去って行く。僧が一人、正行の塚を弔っていると、正行の霊が現れ高師直との戦いの様子を示す。

青衣女人(1943・10・6、東大寺二月堂礼堂)
①前シテ 女、後シテ 青衣女人の霊、ワキ 東国の僧、アイ 二月堂の童子。
②東国の僧が東大寺修二会を参拝しようと二月堂へやって来る。夕暮れに女性がどこからともなく現われ、光明皇后の徳を語り、姿を消す。僧が過去帳を読み上げていると青衣女人が現れる。女人は病の苦しみを示すも、仏の御名を一心に唱え、実忠和尚の生身観音の奇特を称え、光明を放ち東大寺の御厨子へと消える。

元寇(未演)
①前シテ 北条時宗の霊、後シテ 元の大祖忽必烈、ワキ 祖元禅師、アイ 能力、アイ 魚類の精。
②円覚寺の能力が北条時宗の三回忌法要の開式を告げる。祖元禅師が高座に上がり読経をはじめると、時宗の霊が現れ、文永弘安の役のありさまを語り消える。魚の精が弘安の役の海底海面の恐ろしい情景を語る。忽必烈が登場し、日本に敗れたようすを悔やみ消える。

利休(未演)
①シテ 千利休の霊、ツレ 千利休の娘、子方 利休の孫娘、ワキ 大徳寺古渓和尚。
②大徳寺の山門に利休の像を据えたことで秀吉の勘気を蒙り、大宰府へと流されることになった古渓上人が浪華の浦で船を待つところに、利休の娘と孫娘が尋ねてくる。利休の死について語り合い悲しみにくれている。すると利休の霊が現れ、自らの最期について語り、茶道について説く。

親鸞(1961・4・29、東本願寺能舞台)
①前シテ 恵信尼、後シテ 親鸞、ワキ 都の僧。
②都の僧が親鸞聖人の遺跡巡りに稲田の里へとやって来た。田植えをする村人の中に、恵信尼が現われ、法然上人を大勢至菩薩、親鸞を大悲観世音菩薩の化現とみた夢想を語り、姿を消す。夜が更けると親鸞の霊が現れ述懐し、歓喜の舞を舞う。

実朝(1950・11・11、染井能楽堂)
①ワキ 都の個、前シテ 老翁、後シテ 実朝の霊、アイ 由比が浜の漁師。
②鎌倉参詣を志す都の僧が由比ガ浜で休んでいると、岩間からこの岸辺に執心が残るという老翁が現われる。僧が実朝の渡宋への念を思い出し、老翁が実朝の亡魂であることを悟り、最期を語るように促すと、討たれたありさまを語り老翁は消える。夜もすがら僧が待っていると実朝の霊が現れ、「大海の磯もとどろに寄する浪われてくだけてさけて散るかも」を力強く歌い、舞う。

秀衡(1951・11・11、中尊寺能舞台)
①前シテ 西城戸の館の侍女、後シテ 秀衡の霊。
②義経が金色堂へ参拝しようとする途中、西城戸の侍女に声をかけられる。侍女は義経に酒を勧め、朗詠と舞を披露する。女が酔い臥す義経を討とうとする時、弁慶が大声を上げて駆け寄り、女は逃げた。弁慶は即刻平泉を立つように訴えるが、義経は秀衡への恩義から金色堂へ参拝する。義経が表白文を読み上げ、弁慶が数珠を揉むと、秀衡が在りし日の姿で現れ、義経一行の行く道を金色に照らし導く。

綾鼓(1954・12、染井能楽堂)
①前シテ 庭掃きの老人、後シテ 老人の霊、ツレ 女御、ワキ 臣下、アイ 臣下の従者。
②鼓の音を鳴らすことができたらもう一度姿を見せるという約束を信じ、女御に恋をした庭掃きの老人は必死に鼓を鳴らそうとする。しかしその鼓はけして鳴らない綾の鼓であった。その事実を知った老人は、恨みに思って池に身投げして亡くなる。その後、怨霊となって女御の前に現れ、責めを科す。宝生流・金剛流の現行曲である「綾鼓」の改作。

四面楚歌(1958・1・26、喜多能楽堂)
①ワキ 烏江の渡守、前シテ 老翁、ツレ 虞美人、後シテ 項羽の霊。
②夕暮れに烏江の渡守が客を待っていると、摘む花もない秋の野辺に水をやる老翁がいる。舟に乗り河を渡るよう勧めるが老翁が拒む。渡守は項羽の末路を思い出し、詳しく語るように頼む。語り終えると老翁は、項羽の幽霊であると告げ消える。渡守が廣氏の塚の前で楚歌を口ずさむと、廣氏が現われて垓下の囲のようすを、そして項羽が現れ二人の最期を語る。

鶴(1959・1・25、喜多能楽堂)
①シテ 鶴の精、ツレ 都の者。
②都から和歌の浦にやってきた人々の前に若い女性が現れる。その女性は万葉集にある山部赤人の「和歌の浦に潮みちくればかたをなみ芦辺をさして鶴鳴きわたる」の歌について語る。苦吟の赤人が鶴の群れが一斉に飛び立つ姿を見て感動し、即興の一首を添えたことを述べると、自分はその時の一羽の精であると明かし、舞衣の袖を翻しながら、空へと消えていく。

使徒パウロ(1960・11・25、朝日講堂)
①シテ パウロ、ツレ アナニヤ、ツレ 男、ツレ 女。
②サウロはキリスト教徒を迫害しながら旅をしている。突然天からの光にうたれ倒れこむと、サウロは盲目となっていた。苦しむサウロのもとにイエスの使であるアナニヤが現れ、サウロに触れると、目から鱗が涙とともに流れ、また目が見えるようになった。サウロはキリストの偉大さを知り、生まれ変わった気分になる。名をパウロと改め、朝日の中、福音を伝えるための長い旅に出る。

復活(1963・4・25、朝日講堂)
①前シテ マグダラのマリヤ、後シテ イエス、ツレ ペテロ、 ツレ 弟子二人。
②二度鶏が鳴く前に、三度イエスのことを「知らない」と答えたことを、ペテロは祭司長の庭で後悔する。そこヘマグダラのマリヤが現れ「主が復活をしたところを見た」と言い、イエスが十字架に架かってから復活するまでの様子を詳細に語る。イエスに会うためにペテロは他の弟子達とともにガラリヤへ向かう。漁をしていると復活したイエスが現れ、ペテロを許す。

鑑真和上(1964・4・4、喜多能楽堂)
①前シテ 光明皇后の霊、後シテ 鑑真和上の霊、ワキ 旅人。
②旅人が唐招提寺へ鑑真和上の跡を忍んでやって来ると、法華寺の十一面観音にも似た光明皇后の霊に呼びかけられる。光明皇后の霊は鑑真和上を賛美して消える。御影堂の尊像を旅人が拝んでいると、鑑真和上の霊が現れる。唐から日本までの険しい道のりを思い、臨終に至ったときの実相を究めた境地を語る。
(深澤希望・小島久弥子)

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土岐 善麿(とき ぜんまろ)
1885(明治18)年、東京府東京市浅草区浅草の真宗大谷派の寺院、等光寺に生まれる。東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。卒業後は読売新聞記者となる。1910(明治43)年に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いた。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売新聞紙上で取り上げた。これをきっかけとして善麿は啄木と知り合い、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなどの親交を深めたものの、1912(明治45)年に啄木が死去。啄木の死後も善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。その後も読売新聞社に勤務しながら歌作を続け、社会部長にあった1917年(大正6年)に東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し、予算を大幅にオーバーながらも大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりである。翌1918(大正7)年に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、1940(昭和15)年に退社し、戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。1946(昭和21)年には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞。同年に窪田空穂の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。新作能を多数物した作者としても名高い。紫綬褒章受章。ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。戦後の新字・新仮名導入にも大きな役割を果たしている。1980年4月15日、心不全のため東京都目黒区下目黒の自宅で死去。

わかち書きの短歌

 石川啄木(1886~1912)は、第一歌集『一握の砂』で従来の短歌を三行に文節化し、その形式を革新した。啄木が三行わかち書きの様式を採用したのは、土岐善麿の第一歌集『NAKIWARAI』におけるローマ字短歌(一首三行書き)の影響があったと考えられる。善麿と啄木のわかち書きにより、短歌は、短歌が有する短詩型文学としての世界性、聴覚に訴える口承性、身体のリズム感覚に訴える韻律と音楽性、視覚に訴えるデザイン性などに目覚めていく。

 ここで紹介するのは、土岐善麿晩年の歌集『むさし野十方抄』(蝸牛新社)です。収録されている百首全てが二行のわかち書きになっています。まるごと縦書きビューアー「えあ草子」でお楽しみください。

上記をクリックすると、電子書籍ビューワ「えあ草紙」でファイルが開きます。

裏写りが気になる方は「えあ草紙」のメニューを開き、設定にある[裏面透過率]の数値を変更してください。

280曲の校歌

 土岐善麿は歌人や新聞記者として著名であるが、他にも多くの顔を持っていた。代表的なものとして、エスペラント学会理事(1928(昭和3)年就任)、日比谷図書館長(1951(昭和26)年3月)就任。国語審議会会長(第1期から第5期)が挙げられる。
 研究者としては、万葉集、田安宗武、京極為兼、漢詩などを研究。ほかにも論文や随筆の執筆、新作能の創作も行った。
 そしてもう一つ「作詞家」としての顔も持っていたのである。土岐が作詞をしたものは、合唱曲、童謡、社歌、仏教歌、自治体が制定する歌(区歌、市歌など)、軍時歌謡など、実に多岐にわたる。これらの加えて、特に多くの作詞を手掛けていたのが「校歌」である。
 武蔵野文学館では、平成27年4月より、効果の調査を開始。冷水茂太「土岐善麿作詞校歌一覧」を手掛かりに、土岐善麿の著作物に当たり、インターネット上に公開された学校公式HP、校歌関連書籍、JASRAC、「信時潔研究ガイド」信時裕子氏の効果データベース等を参照して、土岐作詞の校歌全280曲(小学校90曲、中学校89曲、旧制中学校2曲、高校・高等専門学校85曲、大学その他14曲)を確認した。

280曲の校歌の詳細を知る。

上記をクリックすると、PDFで校歌一覧のファイルが開きます。

新年のあいさつ

「くじゅうのはる」(1975年1月1日)

年譜

1885年 6月8日、東京都浅草松清町の真宗大谷派等光寺に土岐善静の次男として生まれる。父善静は仏教、国学等の道に通じ、柳営連歌最後の宗匠という学僧であった。母は観世、兄は静、姉は安養、妹は和貴といった。
1894年 4月、浅草馬道にあった浅草尋常高等小学校の尋常科3年に編入。このころ、父より歌の手ほどきをうける。
1899年 東京府立第一中学校(現・日比谷高校)に入学。一級下に谷崎潤一郎がいた。12月から『学友会雑誌』の編集に従事。誌上に文章、俳句、短歌を投稿し始める。
1903年 一年承久の黒田朋信(鵬心)と親交を結び、その紹介で雑誌『新声』歌壇に歌を投稿する。選者金子薫園。湖友と号した。父の命名である。10月、薫園の『白菊会』が結成される。
1904年 3月、府立一中を卒業後、9月、早稲田大学に入学。同級に若山牧水、北原白秋などがいた。
1906年 4月、金子薫園著『伶人』巻末に、作品24首が掲載される。若山牧水ら同級生7名で「北斗会」を結成。回覧雑誌を作る。作歌に励む。また、学園で島村抱月に師事。
1908年 この年より哀果と号する。7月、早稲田大学英文科を卒業。10月、読売新聞社に入社。社会部外交記者となる。
1909年 2月、中村タカと結婚、新居を下谷区北稲荷町にかまえる(現・台東区役所近く)。
1910年 4月、第一歌集『NAKIWARAI』を出版。その後、ヘボン式ローマ字が日本語表記に適さないとさとり、翻燃日本式ローマ字に転向する。『ローマ字世界』の編集に従事。日本ローマ字会理事となる。8月、石川啄木の『NAKIWARAI』 評が朝日新聞に掲載される。
1911年 1月、啄木の勤務先である朝日新聞社に電話し、面会する。二人で雑誌「樹木と果実」の創刊を計画するが、啄木の発病入院により、中止となる。
1912年 4月、病床の啄木のため彼の歌集『悲しき玩具』出版につとめたが、13日啄木は27歳で死去。5月から6月にかけて与謝野晶子ら女性25名を取り上げ「新しい女」と題し、読売新聞に無署名評論を連載する。
1913年 9月、雑誌『生活と芸術』を創刊し発行する。これは啄木と企画し、中止となった『樹木と果実』を再現せんとしたものである。
1915年 2月、『生活と芸術』第2巻第6号、発売禁止処分を受ける。7月、短歌の三行書き表記法をやめる。9月、読売新聞社会部長となる。婦人部が新設され、婦人部も兼任する。『生活と芸術』誌上にて「歌壇警語」を連載、齋藤茂吉との間に6か月にわたり論争が展開される。
1916年 6月、『生活と芸術』が廃刊となる。作品の傾向が社会詠から日常身辺詠に移行した。
1917年 4月、読売新聞社主催の東京都50年記念博覧会協賛事業に、スポーツ界の協力を得て、京都―東京間の駅伝競走を企画、成功をおさめる。これが、今日の駅伝マラソンの起源である。しかしこの時、予算大幅超過の責任を負うことになる。この駅伝競走に先立ち、東海道五十三次の実地調査を行い、1月、2月の間紙上に道中記を掲載した。
1918年 8月、読売新聞社を辞す。10月、東京朝日新聞社に入社。以後、定年まで勤める。
1919年 4月、『啄木全集』第1巻が出版される。啄木の名声を大いに高めた。
1920年 4月、『啄木全集』完結する。その印税を「啄木遺児育英資金」に銀行預金として遺児の祖父堀合忠操に託す。
1923年 9月1日関東大震災にあい、浜松町の自宅罹災消失。生家である等光寺も罹災消失。郊外に逃れる。10月、東京朝日新聞学芸課長となる。
1924年 4月、学芸部長に昇格。下目黒に新居を構える。雑誌『日光』創刊、これに参加し、短歌・随筆を意欲的に発表する。
1925年 1月、漢詩和訳『鶯の卵』が出版される。
1926年 1月、チフスに罹り、伝染病病院研究所付属病院に入院、2月、退院。6月、東京朝日新聞社調査部長となる。
1928年 1月、エスペラント学会の理事となる。雑誌『日光』廃刊。以後、いずれの結社にも属さない。11月、改造社版『啄木全集』全5巻の刊行に当たり、著作権が遺族にわたるよう法的解決に尽力した。
1932年 4月、『啄木追懐』を出版。
1936年 2月、二・二六事件が起り、朝日新聞社襲撃を受ける。「日本歌人協会」改革運動に乗出し、11月27日、レストラン・ツクバで、同会を発展的解消し、「大日本歌人協会」を創立、総会において理事に選出され、互選により白秋とともに常任理事となる。
1939年 9月、喜多実とともに、初めて新作能「夢殿」を作る。11月、『能楽拾遺』を出版する。
1940年 6月、東京朝日新聞社を定年退職し、社友となる。
1941年 1月、歌人の新団体「大日本歌人会」が結成され、委員に推されたものの、これを辞退。以後、歌壇を引退、書斎生活に入り、田安宗武研究に没頭し始める。
1942年 3月、春秋社常務取締役となる。
1945年 5月23日、東京大空襲により、住居喪失、家財一切を失う。埼玉県に疎開する。
1947年 4月、早稲田大学及び大学院の講師となり、上代文学を講ず。5月、『田安宗武』全4冊の研究業績により、帝国学士院賞を受賞。
1948年 1月、かねてより早稲田大学に提出中の学位論文「田安宗武」が教授会を通過、文学学博士の学位を得る。
1951年 2月、斜面荘完成。以後ここで、多くの文人達と交流。3月、日比谷図書館館長となり、新館建設に尽力。
1955年 1月、日本芸術院会員となる。6月、古希を理由とし、早稲田大学講師と日比谷図書館長の職を退く。11月、紫綬褒章を受ける。『新訳杜甫詩選』を出版する。
1965年 4月、勲二等瑞宝章叙勲の内示があり、これを辞退する。武蔵野女子大学文学部日本文学科が開設、日本文学科主任教授となる。「日本文学史」「仏教と日本文学」「詩歌演習」「作家作品研究」「図書館通論」等の科目を担当した。
1970年 3月、『新訳 杜甫』が出版される。
1977年 4月、『むさし野十方抄』が大河内昭爾編により、出版される。
1979年 3月、武蔵野女子大学教授を退く。
1980年 3月15日、2時15分永眠。本人の意向により、戒名も受けず俗名も刻まれなかった。
(藤井 真理子編)


以上、武蔵野文学館編『土岐善麿・秋山駿・黒井千次 武蔵野の教壇に立った文学者』増補版(2011年5月)による。

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