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三田誠広の文学

武蔵野大学での十年

 いまは武蔵野大学と呼ばれているが、昔は武蔵野女子大学だった。評論家の大河内昭爾さんが学長をされていて、秋山駿さんや黒井千次さんが教壇に立っておられるということは知っていた。四十代から文芸家協会の理事会に出るようになり、先輩の文壇人と言葉を交わす機会が増えた。理事会に向かうエレベータの中で秋山駿さんといっしょになったことがある。ぼくは早稲田の教員をしていたので、大学から直行したことを話すと、「ぼくも大学から直行だ」と秋山さんが言われた。それから秋山さんが不思議そうに言われた言葉が忘れられない。「三田くん、きみは酔ってないね」。言われて気づいたのだが、秋山さんは少し酔っておられた。素面では人前でしゃべれない、というお話をその時に聞いた。その時に何となく、武蔵野大学(当時は女子大)っていいところだな、という印象をもった(実際に武蔵野大学に来てみると印象は変わったのだが)。
 十七歳で初めて書いた小説『Mの世界』が文芸誌「文芸」に掲載された時、秋山駿さんと江藤淳さんが時評で採り上げてくださった。そのことをぼくは生涯の宝だと思っている。江藤さんが文藝家協会の理事長の時に、ぼくは突然、知的所有権委員長という重責を与えられた。著作権に関する問題の責任者だ。これはたいへんな仕事だと思ったのだが、江藤さんに恩義を感じていたので断れなかった。それから二十年以上にわたって、ぼくは著作権の責任者をつとめてきた。江藤さんが亡くなられ、吉村昭さんが理事長代行をつとめたあと、高井有一さん、黒井千次さん、坂上弘さん、篠弘さん、出久根達郎さんと、数年ごとに交替していく理事長のもとで、ぼくは二十年にわたって、常務理事あるいは副理事長として、著作権の問題を担ってきた。後任が見当たらないのでこれからもずっと続けていくことになるだろう。ともあれ、先輩作家と親しく交流できたのは、文藝家協会のおかげだと思っている。
 秋山駿さんとは、芥川賞をもらった直後に「早稲田文学」で対談させていただいた。そのあとで新宿に出て酒を飲んだのが、秋山さんとの付き合いの始まりだった。友人の岳真也が歴史時代作家クラブというものを作り、文学賞を制定した時に、秋山駿さんが選考委員長をされていたのだが、いまはぼくが委員長をつとめている。ぼくが武蔵野大学で教員をやるようになったのは、黒井千次さんのあとを継いだということなのだろうが、黒井さんからは日大文芸賞の選考委員とか、内閣府が主催している障害者週間の作文コンクールの仕事などの引き継ぎもあった。
 実際に武蔵野大学で教えるようになったのは、児童文学の評論家として著名な宮川健郎先生に頼まれたからだ。宮川先生とは著作権の仕事で知り合った。当時ぼくは文藝家協会の出資で設立した文藝著作権センターというNPOの理事長もつとめていた(この組織はいまは存在しない)。著作権に関する情報発信の組織で、スタッフをかかえて機関誌を定期的に発行していた。教材出版社が主催した著作権に関する啓蒙活動に協賛のかたちで参加し、ゲスト講師の講演の内容を機関誌に掲載することになった。その講演をされたのが宮川先生で、当日の講演のテープ起こしの原稿を確認していただくなど、やりとりがあった。その宮川先生から客員の仕事を提案された。ちょうど早稲田の専任扱いの客員教授を辞した直後で、早稲田では著作権の講座を一つもっているだけだった。週に一回の仕事ならと気軽に引き受けたのだが、それが深みに落ち込む出発点だった。
 最初の二年は客員だったので楽だったのだが、その後、専任となり、七十歳の定年まで大学の先生を続けることになった。客員の時代も含めて十年も武蔵野大学と関わることになった。しかも後半の六年間は学部長をつとめた。著作権の仕事だけでも激務だったので、人生の中で最も多忙でストレスの多い日々を過ごすことになった。武蔵野大学での十年間を振り返ると、ぼくは三十冊の本を出した。すべて書き下ろしの本だ。文藝家協会と大学の仕事をしながら年三冊のペースで本を書き続けてきたのはわれながらすごいことだと思う。教員としての給料はいただいていても、本業は作家だというプライドのようなものがあって、何とかがんばってこれたのだろう。
 その中で中心となった仕事は「小説によるドストエフスキー論」というシリーズで、『新釈罪と罰』、『新釈白痴』、『新釈悪霊』、『続カラマーゾフの兄弟』の四作の小説だ。これについてはこの紀要の連載でコンセプトなどを語ってきたので、ここではそれ以外の本について述べておきたい。新書やエッセーの類もそれなりに心をこめて書いたのだが、作家としての仕事として重要となるのは、歴史小説だろう。そこで『道鏡/悪業は仏道の精華なり』、『菅原道真/見果てぬ夢』、『聖徳太子/世間は虚仮にして』、『白村江の戦い/天智天皇の野望』について、そのコンセプトなどを記しておく。
 ぼくは三十歳になる直前に芥川賞を受賞してプロの作家になった。そのころは同時代を背景とした青春小説を書いていた。四十歳になって青春小説を書くのがつらくなってきた時、長男をモデルにして『いちご同盟』という作品を書いた。結果としてはこの作品が現在の若者にも読み継がれている代表作のようなものになった。その少しあとで早稲田大学で創作講座を担当するようになったのは、当時の若者と接して、新しい時代の青春小説の素材を得たいといった狙いがあったのかもしれないが、うまくいかなかった。ぼくが考える青春小説というのは、ドストエフスキーの『罪と罰』のような、政治思想と宗教哲学と恋愛ドラマが渾然一体となったタペストリーのようなものだ。しかしぼく自身が若者だった1970年前後が、若者が政治や哲学に興味をもつ最後の時代だったのだろう。もはや現代日本では、ぼくが思うような青春小説は書けないという気がした。
 そこでぼくは、歴史小説に転向することにした。高校時代から支援を受けていた元「文藝」編集長の金田太郎さんのもとで、イエス・キリストを描いた『地に火を放つ者/トマスによる第五福音書』が、ぼくの歴史小説の出発点だと思う。その後、作品社の高木有さんという名編集者に勧められて、『釈迦と維摩/小説維摩経』を書き、次に『桓武天皇』を書いた。桓武天皇はまさに歴史にエポックを刻んだ偉大な人物で、無名の一皇族にすぎなかった若者が千年の都といわれる平安京を築き上げるまでのドラマは、ぼくが理想としていた青春小説になったのではないかと思っている。
 この作品の中に小さなエピソードとして登場する空海のキャラクターがおもしろいと高木さんに褒められて、当初は想定していなかった『空海』という大作を書くことになった。仏教には高校時代から興味をもっていたし、いつかは宗教小説を書きたいという秘めた願望があったのかもしれない。なぜなら司馬遼太郎さんの『空海の風景』という文庫本を学生時代から愛読していた。読んでみるとこれは小説を書くための取材ノートのようなもので、空海がたどった道が克明に描かれている。司馬さんは実際には小説は書かなかった。この取材ノートがあれば、小説が書けるのではないかと思った。ただし空海には謎の空白期間がある。奈良の大学に入るまでの少年時代と、大学を中退してから遣唐使の船に乗るまで期間については、資料が何もない。ここは作者の想像力が試されるところだ。
 とにかく『空海』を書き上げると、テレビの情報番組で紹介されたこともあって、増刷が重ねられることになった。それで高木さんと、三部作を書く約束をした。その次の年に、全共闘運動みたいな過激な主人公を描いた『日蓮』を出し、次は『親鸞』というところで行き詰まった。明らかに準備不足で、親鸞という奥の深い人物を書くのは、当時のぼくには不可能だったのだ。そこで締切を延ばす口実をいろいろ考えているうちにふと思いついたのが、「小説によるドストエフスキー論」の構想だ。高校時代に埴谷雄高さんのご自宅を訪ね、『死霊』の続篇は自分が書くと暴言を吐いたところ、埴谷さんは笑って、続篇は自分で書くと言われ、きみは若いからドストエフスキーの続篇を書きなさいと言われた。作者自身が続篇の執筆を公言したままついに書かれなかった『カラマーゾフの兄弟』の続篇ということなのだが、さすがにこれは、すくに取りかかる気はしなかった。いわば助走として、『罪と罰』を捜査にあたる刑事の視点で描き直すというプランが、突然にひらめいたのだ。そこから出発して、徐々にドストエフスキーの世界の中に浸り込んでいけば、いつかは『カラマーゾフの兄弟』の続篇に到達できるのではないか。これは思いついた段階では途方もない夢と感じられ、命を磨り減らすような作業になるのではと懸念されたのだが、その続篇を書き上げていまも、こうして元気で定年の日を迎えることになった。
 作品社の仕事と並行して、河出書房新社でも仕事をさせてもらえるようになった。ぼくが新書の類を書くようになった出発点は、文春の子会社のネスコ出版から出した『イエスの謎を解く』、『般若心境の謎を解く』、『アインシュタインの謎を解く』の三部作なのだが、その時の編集者の東條律子さんが河出書房新社に転職された。ぼくは河出からデビューしたので、河出との付き合いは長い。金田太郎さんも、高木有さんも、かつての河出の編集者だったが、その後、『いちご同盟』の担当者だった長田洋一さんが退職され、河出との縁が切れてしまっていた。東條さんが河出の編集者となったので、また河出で仕事ができるようになった。最初に書いたのは小説ではなく、『空海』が売れていたこともあって、『謎の空海』という二番煎じのようなエッセーを出してもらったのだが、これはよく売れたので、歴史小説を書かせてもらうようになった。『西行/月に恋する』と、続篇の『阿修羅の西行』を書いた。これはNHKのラジオドラマになった。そのあとで書いたのが、『道鏡/悪業は仏道の精華なり』作品だ。
 道鏡については、孝謙女帝を支配して皇位に就こうとした野心家の怪僧というイメージがある。これを払拭するために、ピュアな宗教家としての道鏡の姿を描いた。儒学者の吉備真備、野心家の藤原百川、小心者の大伴家持、霊能を感じさせる和気清麻呂、飄々とした大納言白壁王(光仁天皇)、その子息の若き日の桓武天皇など、脇役が充実したいい作品になったと自負している。
 次の『菅原道真/見果てぬ夢』は以前に学研から書き下ろしの文庫本として出した『天神』をより文学的に書き換えたものだ。『天神』はホラー小説を書いてくれという依頼に応じて書いたので、文学的な深みに欠け、自分としては不本意な作品になっていた。そこでじっくりと腰を落ち着けて、改めてこのテーマに取り組むことにした。菅原道真は遣唐使を廃止し国風文化が発展する基礎を築いたとされているが、何よりも荘園整理に力を入れて、藤原摂関家の利権を制限しようとした。その結果が大宰府への左遷という不当な処分をもたらすことになった。その政治のメカニズムと、その陰で暗躍した藤原淑子という女官(在原業平の恋人として知られる二条后藤原高子の異母姉)の数奇な生涯を絡めた、人間ドラマを交錯させた物語を描きたいと思っていた。
 その次の作品としては、ずっと以前に廣済堂出版から出した女帝三部作で扱った時代をもう一度たどりなおしたいという思いがあった。女帝三部作とは『天翔ける女帝/孝謙天皇』、『炎の女帝/持統天皇』、『碧玉の女帝/推古天皇』で、そのうち孝謙女帝の時代については、道鏡を主人公にした『道鏡』という作品ですでに試みていた。今回は推古女帝の時代を聖徳太子を主人公として書き直すことにした。
 歴史小説という体裁をとってはいるが、ぼくが書く作品はすべて「青春小説」であり、政治と人間のドラマの中で、いかに生きるべきかという青春小説の王道ともいえる問題を扱ったものだ。その青春小説というものに不可欠な要素は、「尖った自我」といったものだとぼくは思っている。説明的に言えば「強い矜恃と野心に満ちた尖った自我」ということになるだろうか。日本史上のキャラクターで最も尖った自我をもった人物といえば、聖徳太子をおいて他にはないのではと、ずっと以前からぼくは考えていた。『推古天皇』では脇役として描いた聖徳太子を主人公として書き直すことが、自分のライフワークになるのではという予感のようなものがあった。
 ただ聖徳太子という人物は、偉大な政治家であると同時に、傑出した思想家でもあった。この人物がどのようなプランをもち、どのような思想を抱いていたのかを、あまり詳しく語ると、小説が理屈っぽくなり、難解になりすぎるという危惧を最初からぼくは抱いていた。とはいえ、その理屈の部分をすべて割愛してしまったのでは、この人物の魅力を描くことができない。作品の中に、上宮王(聖徳太子)と高麗僧慧慈の哲学的な対話を何カ所か挿入するというプランは最初から決めていた。そこが重くなりすぎると読者が疲れるだろうことは予想できたので、迹見赤檮、調子麿、鞍作鳥といった忍者もどきの武者を配置して、スピード感のある動きでストーリーを引っぱっていくことも試みた。それがうまくいっているかは、読者によっては反応が違ってくるだろう。ぼく自身が理屈っぽい人間なので、思想の方に傾きすぎてしまったといったことがあったのかもしれない。
 『白村江の戦い/天智天皇の野望』は、『持統天皇』で描いた時代を、天智天皇を主人公にしてとらえかえした。白村江の戦いという未曾有の大敗をもたらした戦争の惨禍に到るプロセスは、単なる計算違いの敗戦ではなく、負けることでその危機感によって国を統一するという、天智天皇の叡智による冷徹な戦略だというのが、この歴史的な事象についてのぼくの見解で、実際にこの敗戦によって、唐の侵略を防ぐことができたのだとぼくは思っている。もちろんその時代の唐においては、則天武后による独裁という思わぬ事態が生じて、国内に乱れが生じ、日本への侵略意欲は失われた。さらに新羅による半島の統一が実現して、対外的な状況が落ち着きを見せるようになった。天智天皇がそこまで考えていたわけではないことは、撤退しながら百済の工人を掻き集めて日本に連れ帰り、瀬戸内の各地に城を築いたことや、慌てて海からの侵略のない近江に遷都したことからも明らかだ。
 歴史小説を書く場合は、主人公の生きた時代について熟知する必要がある。「尖った自我」をもった若者が野心をもって生きるという青春小説の基本はどの場合も変わらないのだが、時代が変われば野心の内容も変わり、生き方も変わる。これを小説として実現するためには、その時代の歴史について熟知する必要があるし、歴史のメカニズムについて、できれば新たな発見のようなものが必要だ。小説家は学者や研究者ではないので、古文書を解読したり、発掘調査をしたりといったことはできない。小説家の仕事は資料を読み込み、あとはひたすら熟考するだけだ。
 次の課題としては、持統天皇について考える必要がある。壬申の蘭から大宝律令の成立までの期間は、日本という国が国家としての基礎を固めた重要な時期で、『古事記』も『日本書記』もこの時代に書かれているし、政府の機構や位階制度が確立したのもこの時期だ。それを実現したのは、明らかに藤原不比等で、この人物が主人公になるだろう当初は考えていた。しかし資料を読み込むうちに、柿本人麻呂という存在が気にかかっている。『白村江の戦い』の末尾の部分に、少年の不比等を登場させ、人麻呂は「人丸」という名のみ登場させたのは、この二人が登場する続篇を書きたいという思いはあったのだが、いまの段階では、人麻呂を主人公として物語を展開したいと考えている。
 ただ柿本人麻呂については、梅原猛と井沢元彦の優れたアイデアが出されていて、これを無視するわけにはいかないと思っている。いずれも柿本人麻呂と猿丸大夫が同一人物であるという仮説なのだが、人が猿に改名させられたとするのが梅原説で、その反対に猿が人になったとするのが井沢説だ。柿本佐留(猨/猿)という人物名は日本書紀にも記載されている。また猿丸大夫という呼称の「大夫」は、平安時代には「たいふ」と読んで四位と五位の下級貴族、江戸時代になると「たゆう」と読んで浄瑠璃の歌い手や遊郭の女性の呼称になるのだが、古代にあっては「まえつきみ」と訓じて、大臣に次ぐ高官を指していた。人麻呂はそのような高官ではなく身分の低い宮廷歌人であったと考えられるので、ぼくは別人として描きたいと思っている。ごく自然に考えれば、猿丸が兄で人丸が弟という設定になるのではないか。この時代は天智天皇、天武天皇の皇子や皇女があまた存在して、登場人物が多すぎるところが、小説家の前に難関として立ちはだかっている。
 これからの仕事はすべてがライフワークという感じになるのではないかと思い、やや緊張してもいるのだが、年齢から来る体調の変化もあるだろうから、締切に追われるような仕事はもう無理だろうと思っている。出版界はかつてないほどの不況で、本を出しづらくなったということもあり、締切を設定してくれる出版社もないのではと懸念される。その意味では、この十年は幸いなことに、つねに仕事のオファーがあって、締切を設定して仕事ができた。この仕事があるからこそ、著作権や大学の仕事で忙殺されている時にも、強い集中力で作品の世界に没頭することができた。自分の仕事に没頭することで、現実の諸問題から束の間の逃避ができたということもできる。そう考えてみると、大学の仕事がなくなると、逃避をする必要もなくなり、かえって集中力が散漫になるのではないかという気もしている。
 最後に資料としてこの十年間の三田の仕事を列挙しておく。

2009年(客員教授)
児童文学「海の王子」(講談社青い鳥文庫)
評論「原子への不思議な旅」(サイエンス・アイ新書)
小説「堺屋太一の青春と70年万博」(出版文化社)
評論「マルクスの逆襲」(集英社新書)
小説「新釈罪と罰/スヴィドリガイロフの死」(作品社)
2010年
評論「仏教って何?」(講談社+α新書)
小説「阿修羅の西行」(河出書房新社)
児童文学「青い目の王子」(講談社)
小説「なりひらの恋」(PHP研究所)
小説「新釈白痴/書かれざる物語」(作品社)
2011年(専任教授)
評論「平安朝の悪女たち」(PHP研究所)
評論「哲学で解くニッポンの難問」(講談社)
小説「道鏡/悪業は仏道の精華なり」(河出書房新社)
評論「実存と構造」(集英社新書)
随筆「男が泣ける昭和の歌とメロディー」(平凡社)
2012年
小説「新釈悪霊/神の姿をした人」(作品社)
評論「超自分史のすすめ」(東京堂出版)
2013年(文学部長)
小説「菅原道真/見果てぬ夢」(河出書房新社)
評論「早稲田1968」(廣済堂出版)
評論「数式のない宇宙論」(朝日新書)
2014年
評論「釈迦とイエス/真理は一つ」(集英社新書)
小説「偉大な罪人の生涯/続カラマーゾフの兄弟」(作品社)
2015年
評論「日本仏教は謎だらけ」(双葉新書)
小説「聖徳太子/世間は虚仮にして」(河出書房新社)
2016年
小説「親鸞」(作品社)
評論「仏教で愉しく死の準備」(双葉新書)
2017年
小説「白村江の戦い/天智天皇の野望」(河出書房新社)
評論「こころにとどく歎異抄」(武蔵野大学出版会)
2018年
評論「源氏物語を反体制文学として読んでみる」(集英社新書)
評論「小説を深く読む」(海竜社)

以上、『武蔵野文学館紀要』第9号(2019年3月)より転載。

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三田 誠広(みた まさひろ)
1948年6月18日、大阪府大阪市に生まれる。高校時代に書いた小説『Mの世界』で文藝学生小説コンクールの佳作に入選。安岡章太郎や秋山駿に評価される。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業後、サラリーマン生活を経て1977年、『僕って何』で第77回上期芥川賞を受賞。1988年から早稲田大学で教鞭をとり、1997年~2001年と2005年~2007年には早稲田大学文学部客員教授を務めた。その後2009年~2011年武蔵野大学文学部客員教授、2011年から2018年まで武蔵野大学文学部教授。2013年から定年退職する2018年までの間に、武蔵野大学文学部長、武蔵野文学館館長などの管理職を歴任。2018年、『こころにとどく歎異抄』を武蔵野大学出版会から刊行。現在、武蔵野大学名誉教授。日本文藝家協会副理事長。日本文藝著作権センター事務局長。著作権問題を考える創作者団体協議会議長。歴史時代作家クラブ会員。武蔵野文学賞(高校生部門)選考委員長。
(2020年3月現在)

略年譜(公式HPに掲載されている年譜による)

1948年 6月18日、大阪市に生まれる。
1955年 私立追手門学院小学校に入学。
1961年 同中学校に入学。
1964年 府立大手前高校に入学。
1965年 同高校を休学。哲学書、仏典などを読む。
1966年 処女作「Mの世界」を書く。同作品にて『文芸』の学生小説コンクールに佳作入選。
1968年 早稲田大学第一文学部入学。東京都渋谷区神泉に住む。
1971年 高校時代の同級生、中西真知子と結婚。武蔵野市吉祥寺に住む。
1972年 『文芸』に「体操教師」を掲載。
1973年 早稲田大学第一文学部演劇専修を卒業。卒論は「ヨプ記と維摩経」。この頃、「僕って何」の草稿を書く。東京玩具人形共同組合に就職。「トイジャーナル」の編集にあたる。長男生まれる。
1974年 スタジオFに転職。「ホンダワールド」の編集にあたる。
1975年 「ホンダワールド」編集長となる。この頃からアルバイトで『週刊テレビガイド』のアンカーを務める。
1976年 次男生まれる。スタジオFを退社。同社の嘱託として仕事を続ける。編集長の重責から解放されたため「僕って何」の書き直しの作業を始める。
1977年 『文芸』に「僕って何」掲載。同作品にて第77回芥川賞受賞。東京都八王子市めじろ台に転居。
1978年 『朝日新聞』に「龍をみたか」を連載。
1979年 『文芸』に「帰郷」(第一部)連載開始。
1980年 『文学界』に「野辺送りの唄」連載。
1981年 『文芸』に「帰郷」(第二部)断続的連載開始。『早稲田文学』の編集委員になる。
1982年 『夕刊フジ』にエッセー「都の西北」連載。
1983年 『週刊宝石』にエッセー「すずめ台つれづれ日記」を連載。『早稲田文学』に「新しい書き手はどこにいるか」を連載。
1984年 書き下ろし「漂流記1972」。『野性時代』に「考えるウォークマン」を連載。『早稲田文学』の新人賞選考委員になる。
1986年 東京都世田谷区三宿に転居。
1987年 愛犬リュウノスケ来る。
1988年 書き下ろし「デイドリーム・ビリーバー」。早稲田大学文学部の非常勤講師として文芸専修の「小説創作」演習を担当。
1990年 書き下ろし「いちご同盟」。『海燕』に「鹿の王」断続的連載開始。
1992年 書き下ろし「地に火を放つ者」
1993年 『文芸』に「愛の行方」を連載。
1996年 『文芸』に「迷宮のラビア」を連載。日本文芸家協会評議員となる。
1997年 「いちご同盟」鹿島勤監督により映画となる。『読売新聞』に「恋する家族」を連載。早稲田大学文学部客員教授となる。日本ペンクラブ言論表現委員会委員になる。長男ブリュッセルに留学。
1998年 初の本格的な歴史小説の執筆を開始する。文芸家協会理事となる。
1999年 「いちご同盟」NHKのドラマとなる。文芸家協会常務理事および知的所有権委員長となる。文化庁著作権審議委員会(現在は著作権分科会)委員となる。
2000年 次男就職。会社の寮に引っ越し。長男スペインのウェスカにて結婚。
2001年 任期終了により早稲田大学文学部客員教授を退任。
2002年 ペインで孫生まれる。愛犬リュウノスケ死去。
2003年 書き下ろし「釈迦と維摩」。NPO法人日本文芸著作権センター事務局長となる。同年9月、国際天文学連合命名委員会によって、小惑星11921番がMitamasahiro(三田誠広)と命名される。
2004年 書き下ろし「桓武天皇/平安の覇王」。社団法人著作権情報センター理事。次男、結婚。
2005年 早稲田大学文学部客員教授に復帰。スペインで二人目の孫生まれる。書き下ろし「空海」
2006年 福祉法人日本点字図書館の理事に就任。日本文藝家協会副理事長に就任。書き下ろし「永遠の放課後」
2007年 早稲田大学を退任。スペインで3人目の孫生まれる。
2008年 日本で1人目の孫生まれる。
2009年 武蔵野大学客員教授。日本ペンクラブ理事。「西行 月に恋する」「新釈罪と罰」
2010年 日本で2人目の孫生まれる。NPO法人日本文藝著作権センター解散。「阿修羅の西行」「青い目の王子」「新釈白痴」
2011年 武蔵野大学教授。「道鏡」
2012年 東京都千代田区神田淡路町に転居。「新釈悪霊」
2013年 ペンクラブ理事を退任。スペインで4人目の孫生まれる。合計6人目。武蔵野大学文学部長。「菅原道真」「数式のない宇宙論」
2014年 「偉大な罪人の生涯 続カラマーゾフの兄弟」
2015年 「聖徳太子」
2016年 「親鸞」
2017年 「白村江の戦い」
2019年 武蔵野大学を定年退職。同大学客員教授。創作者団体協議会解散。SARTRAS副理事長に就任。

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